株式会社原中興業    茨城県取手の足場屋
(リフォーム、太陽光発電関係の相談も受けてます)

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株式会社原中興業  代表取締役社長 原中献児

1973年4月5日生まれ B型 広島県出身

両親はエホバを崇拝して 父と姉はその宗教に深く関わっています。

また母方の親戚は広島県の浄土真宗の福間一族として代々地元広島県の浄土真宗の歴史に影響を与え現在に至ってます。

 原中献児の意識は別として物の考え方に宗教が多くの影響を与えているのは事実です。

   そのような宗教一家の影響もあって  優しい一面もありますが自分でも物の見方や判断、行動はぶっ飛んでいて どんな時でも乗り越える諦めない性格です。 その諦めない性格もあってかいつもギリギリで助かる悪運の強さを持ってます。 そのピンチでも土壇場で助かる悪運の強さは先祖が武将で戦国武将独特のギリギリの場面で切り抜け生き抜く生きざまDNAで受け継いでいると信じてます。

          


余談

父方は清水藩家臣の馬番と聞いてますが資料がありません。原中の馬番時代の地名から氏は原中になった様です。

  母方は清和源氏の支流で福間一族の末裔です。福間家は戦国時代から江戸時代にかけて、主に毛利氏の家臣として活躍した一族として歴史に名を残しています。 

守護大名・山名氏の一族とされます、

私のルーツの祖にあたる福間政貞は尼子氏に属して備後旗返城主となっていました。

戦国時代には「福間彦右衛門尉元明(もとあき)」が毛利元就に仕え活躍しました。元明は尼子氏の猛将・山中鹿之助を討ち取った武功で知られています。元明は豊臣秀吉の九州平定(1586年)で戦死し、その家督は子の「元道(もとみち)」が継ぎました。

  毛利家中での役割 

御守御老(ごしゅごろう): 毛利家臣団において中核を担った家系です。

 福間元明の子に福間元道福間元之がいます。

毛利家萩藩(長州藩)での家格は「大組(おおぐみ)」に属し500石を拝領した上級藩士です。

嫡子や藩主の側近として守役・相談役を担いました。例えば、福間元道は毛利輝元の次男・就隆(しげたか)の守り役(御抱守御用人)を務めています。

福間 元道(ふくま もとみち)は、下松藩家老(輝元の弟の藩の筆頭家老)600石を拝領しています。

  毛利家は江戸時代が始まる直前の1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった結果、それまでの山陽・山陰8ヶ国(約120万石)から、周防国・長門国の2ヶ国(防長2国・約36万石)へと大減封され、本拠地を広島から長州藩(萩藩)へと移動させられました。

福間一族もその影響を受けて今の山口県に移動して武士として活躍していきますが、武士を辞めて土地に残った家族と   福間家は浄土真宗と深い関わりがありその地で住職を務めている家族がいます。

それから侍ではない寺と庄屋の福間一族がそれぞれ繁栄していきます

江戸時代の 三次村の福間家は庄屋とし、時には町奉行や代官の様な働きをしていた様です。


浄土真宗の福間一族

三次市の照林坊は福間元明の母の出生した寺で寺の娘です。弟は浄誓は安芸高田市高林坊を開基しました。

高林坊は、安芸・備後地方における浄土真宗の布教拠点として勢力を拡大し今では福間家が住職をしている浄土真宗の寺は多く存在しています。

この様に福間家は毛利家と浄土真宗と地元の土地に深く根を張った一族です。


尼子時代から山陰に根を張った福間一族の末裔の方々も今でも多くいる様で調べてみると活躍ぶりを伺う事ができます。


  

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